穂積陳重(ほづみ・のぶしげ)という人物が登場しています。
https://www.nhk.or.jp/seiten/cast/
彼は「イギリス留学から帰国後、明治14年に東京大学法学部の講師に就任し、」
渋沢栄一の娘「歌子とお見合い結婚」しました。穂積は「その後、
法学者として日本の民法制定などに貢献」しました。
実を言うとこの穂積陳重は、日本の少年法の歴史を学ぶ上でも、
重要な位置を占めています。
彼は1906年ごろ、アメリカ合衆国を訪れています。
実はその直前の1899年、
アメリカのイリノイ州のクック郡(シカゴがある所です)に、
世界最初のjuvenile court(少年裁判所)が創設されました。
初期の少年裁判所の審理は公開されていました(注1)
穂積も傍聴しました。
実際、1907年に日本に帰ってきた穂積は、
同年の5月に「米国ニ於ケル小供裁判所」(注2)と題する講演を行い、
その際に以下のようなことを述べているのです。
「此」(この)「時は、判事『リンゼー』は裁判官の高座より降りて
児童等と同席し、如何」(いか)「にも心配なる様子で、一々報告簿を調べ、
良き記入あるときは喜んでこれを賞揚し、他の児童にも示し、
若」(も)「し其」(そ)「の記入の不良なるときは、
同情を以」(も)「って其の原因を糺」(ただ)「し、
或」(あるい)は「叱り、或いは励まし、或いは慰め、
諄々」(じゅんじゅん)として其の改悛」(かいしゅん)「の方法を
説き聞かせ、または前の判決を改め、如何なる腕白小僧も
溢」(あふ)「る如」(ごと)「き慈愛の温かみを感じて、
自然に信頼の念を起こしむるに至ると云」(い)「ふことであります。」

なおここでの「リンゼー」判事は、注(1)で引用した文献では
「ベンジャミン・リンジー判事」と表記されていまして(注3)、
「デンヴァー少年裁判所の著名な判事」でした(注4)。

話を「米国ニ於ケル小供裁判所」という講演に戻しますと、
この講演を1つの大きなきっかけとして、
日本でも少年法を制定しようという運動が始まりました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%BE%8B%E5%8F%96%E8%AA%BF%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
つまり、↑司法省法律取調委員会(法典の起草を行う委員会)が
刑訴法委員会特別部会として「少年犯罪ニ関スル法律案特別委員会」を
組織して、委員長に穂積を選出して、
1912年2月に新法案の審議を開始しました。
この新法案の審議は、いろいろな理由で、非常に難航し、
「少年法案」として帝国議会に提出されたのは、
実に7年後の1919年の暮れになってのことでした(注5)。
この「少年法案」の帝国議会での審議も、かなり難航しまして、
議会通過にこぎつけたのは1922年の3月になってのことでした(注6)。
そうです。戦前にも「少年法」という名前の法律がありました。
これを「旧少年法」と言いますが、来年2022年は、
旧少年法制定から100年という記念すべき年なのです。
ですから、私は、旧少年法誕生100年を勝手に記念すべく、
この法律のあらましをここDiary Noteにご紹介するつもりでした。
これをいつやろうか、悩んでいたのですが、
「旧少年法」の起草に深く関わった穂積陳重が渋沢栄一の娘婿と
知りましたから、明日から行おうと思います。
かなり法律学的な話になってしまいますが、できるだけ分かりやすく、
現行少年法のあらましと比較する形で行うつもりですので、
ご一読いだたければ幸いです。

 (注1)この点について例えば、デビッド・S・タネンハウス著、石川正興監訳
  『創生期のアメリカ少年司法』(成文堂、2015年)44頁、53頁を
  参照されたし。
 (注2)森田明『未成年者保護法と現代社会-保護と自律のあいだ-』
  (有斐閣、1999年)202頁からの引用。
 (注3)タンネンハウス・前掲注(1)書185頁、196頁。
 (注4)タンネンハウス・前掲注(1)書196頁。
(注5)森田・前掲(注2)書204-210頁。
 (注6)森田・前掲(注2)書212-221頁。

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